私の中学生時代その2、いろいろあったが何とか乗り越えた
こんにちは、
拙作ブログをご覧いただきありがとうございます。
今回は、
私の中学生時代 を振り返ります。
中学生時代は、
私の人生のなかで、
一番多感な3年間でした。
勉強あり、部活あり、生徒会活動あり、
初恋あり・・
中でも、
高校進学では随分と悩みました。
というか、
私の家は貧乏でしたので、
みんなと進むところが違って、
親を恨んだこともありました。
当時は、
かなり「ぐれ」かかっていましたが、
何とか無事に社会人になれたのも、
親のおかげと、
今では感謝しています。
ということで、
ほとんどの読者には関係のないことかもしれません。
私の記録として記事に書かせていただきます。
もし、同じ年代、同じ境遇のかたがいて、
少しでも共感していただければ幸いです。
- 1.時代と学校
- 2.運動会のマラソン →その1
- 3.ブラスバンド →その1
- 4.連絡ノート →その1
- 5.最初の学年テスト →その1
- 6.夜回り先生 →その1
- 7.初恋
- 8.生徒会
- 9.進学
- 10.卒業式
- 11.まとめ
- 【関連記事】
- ※更新履歴※
- ※CMリンク※
1.時代と学校
まずは、
私の中学時代の概要です。
1)時代:1962年4月~1965年3月
2)学校:大分市立滝尾(たきお)中学校
3)住所:大分市羽田(はだ)
4)名物:百穴(ひゃっけつ)
グラウンド北側の崖には、
古墳時代(6~7世紀ごろ)の遺跡、
滝尾百穴群があります。
貴重な遺跡に見守られて生活している学校は、
全国的にも珍しいようです。
◆中に入ってよく遊んだ。
その百穴の中に入ってよく遊びました。
中は真っ暗です。
じめじめしています。
天井から水が「ポタポタ」と落ちてきます。
そこを「探検ごっこ」と称して、
奥まで入っていきました。
真っ暗で何も見えません。
暗闇の世界です。
今は立ち入り禁止になっているのでしょうか。
かなり危ない遊び場です。
よくまあケガ人が出なかったよなあ。
と、今さらながら感心しています。
※下記2~6は、その1をご覧ください。
2.運動会のマラソン →その1
3.ブラスバンド →その1
4.連絡ノート →その1
5.最初の学年テスト →その1
6.夜回り先生 →その1
7.初恋
まずは初恋の話からです。
といっても、私の勝手な片思いです。
しかも、小学生時代に、
担任の先生(藤沢先生だったかな?)にも恋をしていたので、
正確には「初」でないかも知れません。
陽子さんごめんなさい。
あっ、「陽子さん」とは私の初恋の人です。
フルネーム : 佐藤陽子さん
7-1.頭が良かった
とにかく頭が良かったです。
陽子さんと話をすると、
その頭の良さがすぐに分かりました。
勉強ができるとか、
そういうものではなくて、
(もちろん、学校の成績も良かったのですが)
頭の回転が速いのです。
しかも、
こちらの言うことを、
正確に理解してくれるのです。
私なんか足下にもおよびませんでした。
私は、ガリ勉タイプです。
つまり、勉強しないと、
すぐに成績が落ちるタイプです。
ところが、
陽子さんは根っからの秀才でした。
馬に、たとえるなら、
陽子さんはサラブレッドで、
私は駄馬(農耕馬)です。
7-2.やさしかった
「やさしかった」
というと、
普通の表現になりますが、
陽子さんの場合は、
少し違っていました。
やさしい人って、
普通は、おとなしいですよね。
ところが、
陽子さんは正反対でした。
(と、ここまでいうと殴られそうですが・・)
聞き上手といえばよいのでしょうか。
こちらの言わんとすることを、
即座に理解してくれました。
「そうそう」、「あるある」
「そういうこともあるよね」
と、
次から次と、別の言葉が返ってくるのです。
こちらの言わんとすることを察して、
私の思いを代弁してくれるのです。
これは「すごい」。
これって、
「やさしい」と言っていいんですよね。
少なくとも、
ボクには「やさしく」感じました。
7-3.卒業して別れ別れに
そうなんです。
進学先が陽子さんとは別々になったのです。
(詳細は後述)
ですので、
中学校を卒業すると同時に、
別れ別れになりました。
中2のときは、
同じクラスだったのに・・。
7-4.会うたびにきれいに
中学卒業後に何度か会う機会がありました。
私が進学した「大分高専」にも来てくれました。
あのときは(あのときも)嬉しかったなあ。
社会人になっても
会うことがありましたが、
その知的さは、
少しも変わっていませんでした。
しかも、「どきっ」とするほど、
きれいになっていました。
しかし、
そのころは一児のママでした。
そういう私も結婚していました。
やっぱり初恋は、
「はかない」
ものなんですね。
8.生徒会
3年生になったころでしょうか。
生徒会に興味を持ちました。
というか、
我が校では、
学校の成績のよい人が生徒会の役員になるものだと、
暗黙のルールがあったようです。
それで、
私も「生徒会長」に立候補しました。
8-1.体育館で立候補演説も
我が校にも一人前に選挙規定がありました。
立候補者が全校生徒の前で演説するのです。
◆こういうの大好き。
実は、私は次男です。
と、いきなり脱線してしまいました。
男ばっかり3人の真ん中です。
家では一番目立ちにくい存在です。
長男:将来の跡取り⇒親から大事にされる。
末っ子:かわいいと、可愛がられる。
次男:「ケンジ、あんたおったんね」
ケンジは私の名前です。
というわけで、
家では存在感が薄かったので、
いつも、
どうしたら目立つかを考えていました。
そうしないと生きていけませんから。
(ちょっと大袈裟か)
そういうなかでの、
立候補演説です。
張り切ったのは言うまでもありません。
当然ですが、
肝心な中身は覚えていません。
(が~ん)
どうせ、
いい加減なことしか、
しゃべっていなかったのでしょう。
ちなみに、
こんな調子が良いところも次男の特徴です。
しかも、
血液型はO型です。
性格が、
かなりの「おおざっぱ」です。
すみません、また脱線しました。
8-2.それで選挙結果は?
その選挙結果ですが、
見事(というか、まぐれというか)当選しました。
◆そのあとが大変・・。
ですが、生徒会長って大変なんですね。
まず三役を選出します。
「三役」って、なんだったけなあ。
(もう忘れちゃった)
そのほか、役員会議とかがありました。
また、朝礼のときに何かしゃべったような記憶もあります。
少なくとも、首相の安倍ちゃんよりは、
マジメに働いたと思います。
9.進学
私の一番苦い思い出は「進学」です。
9-1.みんなは公立高校(進学校)へ
この時代(いまでもそうかなあ)、
進路には、「理想」と呼ばれるレールがありました。
上野丘高校 or 舞鶴高校
(いずれも大分では有名な進学校)
↓
一流大学(国立大学 or 早稲田/慶応)
↓
一流企業
9-2.ところが私の家は貧乏
ところが、私の家(うち)は貧乏でした。
たしか、
このころも「生活保護」を受けていたと思います。
大学に行かせてもらえるほどの余裕は、
どこにもありませんでした。
だから、
みんなが進学の話をしているときは、
私はいつも「蚊帳の外」でした。
9-3.進学先は大分高専のみ
そのような貧乏家庭でしたので、選択肢はただ一つ。
「即卒業」、「即稼ぐ」
つまり、
授業料の安い学校に行って、
早く卒業し、
給料の良いところに早く就職することでした。
この条件にマッチしていたのが「高専」でした。
即戦力となる中堅技術者を、
国策で養成していたのです。
高専は、いちおう「国立」でした。
ですので、
授業料は安かったと思います。
◆競争率は10倍も。
あの頃の高専の入学競争率は10倍近くでした。
(数字は、うるおぼえです)
高専ができたころの、
ちょうど人気絶頂期でした。
ちなみに、
大分高専は、1963年4月に開校しました。
よって、私は三期生です。
9-4.奨学金も
高専という格安な学校を選んでも、
我が家の家計は苦しかったので、
奨学金をもらうことにしました。
そのための試験も受けました。
余談ですが、
この時期、試験には自信がありました。
とにかく、
試験勉強は徹底してやりました。
9-5.こういう裏話も
大分高専での入学試験の成績(順位)は2番でした。
一番の人は舞鶴高校から
京都の大学に行った女性でした。
(それは、あとから知りました)
その女性とは、デパートのアルバイトで、
ひょんなことから知り合いました。
う~ん、
たしかに秀才タイプでした。
(いいとこのお嬢さんのような感じでした)
私なんか
「お呼びでない」って感じでした。
ちなみに、その女性が通った、
舞鶴高校の入学試験に私も受けました。
いわゆる「滑り止め」ってやつですね。
しかし、
試験開始から20分ほどで試験会場を出たのですが、
(もちろん、全問解答しましたが)
それでも合格しました。
でも本当は舞鶴に行きたかったなあ。
陽子さんもいたので・・。
大学がいい!
親を恨みました。
10.卒業式
いよいよ卒業式の季節を迎えました。
しかし、仲間のみんなは、
受験勉強で、それどころではありませんでした。
◆高専の試験は終わっていた。
そうなんです。
高専の入学試験は公立高校より早く終わります。
だから、
この時期は、私には余裕がありました。
10-1.卒業生代表で答辞を
ある日、担任の先生から言われました。
先生の名前は「松尾先生」です。
「河原くん、
卒業生総代として答辞を読むようになったよ」
そこで、
答辞を読む練習をさせられました。
◆それが形式張ってつまんないの。
生まれて初めての答辞です。
と緊張したのもつかのま。
すぐに嫌気がさしました。
①中身の文章が決まっている。
②読み方は、「ゆっくりと拡張高く」。
なんじゃこれは。
これじゃ、ただの棒読みじゃん。
つまり、
自分の個性なんか出しようがなかったのです。
しかも、
「包み」を開けて、中身を取り出す作法から、
その中身をしまう作法まで。
その「包み」を校長先生の壇上に置く作法までが、
事細かく決まっていました。
それを、たしか1週間近くやらされました。
卒業式って、
そんなもんじゃないだろうが!
ですので、
卒業式の記憶といえば、
その練習ばかりです。
10-2.母親も来ていた
この記憶はうっすらですが、
たしか卒業式には、お袋も来ていたと思います。
私の家は共稼ぎですので、
お袋はめったに学校に来ませんでした。
ですので、
私はあきらめていましたし、
さびしい気持ちも、
後ろめたい気持ちもありませんでした。
しかし、
子供の最後の門出を見たかったのでしょう。
ただ、
私の記憶にある母親の存在は、
「ほんのうっすら」です。
親不孝ですね。
11.まとめ
どうでしたか。
今回は私の中学生時代の後半を見ていただきました。
以下総括です。
キーワードを並べます。
11-1.波瀾万丈
私の中学時代を、ひと言でいうと波瀾万丈です。
その大きな要因は、「貧乏家庭」です。
生活保護を受けて、
両親とも、朝から晩まで働いていました。
家が全焼する火事もありました。
こんな状態で、
大学なんか行けるはずがありません。
もし、大学に行っていたら・・
と今でも思うことがあります。
そんな「タラレバ」を言っても始まりません。
ただ言えることは、
16歳の私には、
「つらすぎた」ということです。
11-2.背景には反抗期が
バックには間違いなく反抗期がありました。
ただ、私の場合は、
それが良い方向に作用したようです。
マラソンもそうです。
テストもそうです。
ブラバンもそうです。
根っからの負けず嫌いとあいまって、
「何でも1番」にさせたのでしょう。
11-3.でもどこかに甘えたい気持ちも
でも一方で、甘えたい気持ちがありました。
◆連絡ノート。
辛島先生との連絡ノートもその一つです。
あの連絡ノートには、自分の正直な気持ちを書きました。
それで救われたことは数多いと思っています。
できれば、そのノートをみてみたいのですが、
残念ながら私の手元にはありません。
記憶も段々とおくなっています。
残念です。
◆初恋も。
初恋といっても、一方的なものです。
陽子さんを意識したのは、
2年生のときでした。
多分、さびしかったのだと思います。
表面では、いきがっていましたが、
心の中では、話し相手が欲しかったのでしょう。
11-4.最後は自分は自分
今、私の記憶に一番残っているのは、
三年生最後の時期です。
1967年1月~3月
進学で自分だけが取り残されました。
そういう「疎外感」を感じていました。
もっと勉強したかったのに。
大学に行ける力はあったのに。
家が貧乏なので大学に行けない。
みんなと別れ別れになる。
なんで?
なんで俺だけが?
俺は、
俺は、
あれだけ真剣に勉強してきたんじゃないか。
この答えが出ないまま、
私はいずれ死んでいきます。
天国で両親に会えるのかなあ?
そのときに言う言葉があります。
「あのときは、生活が大変だったんだよねえ」
「子供3人を育てなきゃいけなかったし」
「そんななかで、
俺たちを育ててくれてありがとう」
また涙が出てきました。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
【関連記事】
※更新履歴※
【更新】2019年9月6日、2020年1月10日、4月6日、5月21日、10月7日、2021年7月13日、2022年7月30日
少しだけ校正させていただきました。
【更新】2019年7月10日
「目次」を追加しました。
これで少しは読みやすくなったと思います。
タイトル及び中身(文章)をマイナー修正しました。
※CMリンク※
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