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こんにちは、拙作ブログのご紹介です。このブログは河原健次がお届けしています。大分市出身、木更津市在住です。すでに半世紀以上も生存しています。その長い歴史から、日常生活や人生に参考になりそうな情報を提供しています。読者のみなさんに役立つことを願っています。

私の中学生時代その2、いろいろあったが何とか乗り越えた

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こんにちは、

拙作ブログをご覧いただきありがとうございます。

 

今回は、

私の中学生時代 を振り返ります。


中学生時代は、

私の人生のなかで、

一番多感な3年間でした。

 

勉強あり、部活あり、生徒会活動あり、
初恋あり・・

 

中でも、

高校進学では随分と悩みました。

 

 というか、

私の家は貧乏でしたので、

みんなと進むところが違って、

親を恨んだこともありました。

 

当時は、

かなり「ぐれ」かかっていましたが、

何とか無事に社会人になれたのも、

親のおかげと、

今では感謝しています。

 

ということで、

ほとんどの読者には関係のないことかもしれません。

 

私の記録として記事に書かせていただきます。

 

もし、同じ年代、同じ境遇のかたがいて、

少しでも共感していただければ幸いです。

 

 

 

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1.時代と学校

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滝尾中学校のグラウンド北側にある「百穴」

まずは、

私の中学時代の概要です。

 

1)時代:1962年4月~1965年3月

2)学校:大分市立滝尾(たきお)中学校

3)住所:大分市羽田(はだ)

4)名物:百穴(ひゃっけつ)

 

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グラウンドそばの百穴

グラウンド北側の崖には、

古墳時代(6~7世紀ごろ)の遺跡、

滝尾百穴群があります。

 

貴重な遺跡に見守られて生活している学校は、

全国的にも珍しいようです。

 

◆中に入ってよく遊んだ。

その百穴の中に入ってよく遊びました。


中は真っ暗です。
じめじめしています。


天井から水が「ポタポタ」と落ちてきます。

 

そこを「探検ごっこと称して、
奥まで入っていきました。

 

真っ暗で何も見えません。

 

暗闇の世界です。

今は立ち入り禁止になっているのでしょうか。

 


かなり危ない遊び場です。

 

よくまあケガ人が出なかったよなあ。


と、今さらながら感心しています。

 

 

※下記2~6は、その1をご覧ください。

 

kawa2496.hatenablog.com

 

2.運動会のマラソン →その1

 

3.ブラスバンド →その1

 

4.連絡ノート →その1

 

5.最初の学年テスト →その1

 

6.夜回り先生 →その1

 

7.初恋

まずは初恋の話からです。

 

といっても、私の勝手な片思いです。

 

しかも、小学生時代に、

担任の先生(藤沢先生だったかな?)にも恋をしていたので、

正確には「初」でないかも知れません。

 

陽子さんごめんなさい。

 

あっ、「陽子さん」とは私の初恋の人です。

 

フルネーム : 佐藤陽子さん

 

7-1.頭が良かった

とにかく頭が良かったです。

 

陽子さんと話をすると、

その頭の良さがすぐに分かりました。

 

勉強ができるとか、
そういうものではなくて、

(もちろん、学校の成績も良かったのですが)

 

頭の回転が速いのです。

 

しかも、
こちらの言うことを、

正確に理解してくれるのです。

 

私なんか足下にもおよびませんでした。

 

私は、ガリ勉タイプです。


つまり、勉強しないと、
すぐに成績が落ちるタイプです。

 

ところが、
陽子さんは根っからの秀才でした。

 

馬に、たとえるなら、

陽子さんはサラブレッドで、

私は駄馬(農耕馬)です。

 

7-2.やさしかった

「やさしかった」


というと、

普通の表現になりますが、


陽子さんの場合は、
少し違っていました。

 

やさしい人って、
普通は、おとなしいですよね。

 

ところが、
陽子さんは正反対でした。

(と、ここまでいうと殴られそうですが・・)

 

聞き上手といえばよいのでしょうか。

 

こちらの言わんとすることを、
即座に理解してくれました。

 

「そうそう」、「あるある」

 

「そういうこともあるよね」

 

と、

次から次と、別の言葉が返ってくるのです。

 

こちらの言わんとすることを察して、

私の思いを代弁してくれるのです。

 

これは「すごい」

 

これって、
「やさしい」と言っていいんですよね。

 

少なくとも、
ボクには「やさしく」感じました。

 

 

7-3.卒業して別れ別れに

そうなんです。


進学先が陽子さんとは別々になったのです。
(詳細は後述)

 

ですので、
中学校を卒業すると同時に、
別れ別れになりました。

 

中2のときは、
同じクラスだったのに・・。

 

7-4.会うたびにきれいに

中学卒業後に何度か会う機会がありました。

 

私が進学した「大分高専」にも来てくれました。


あのときは(あのときも)嬉しかったなあ。

 

社会人になっても

会うことがありましたが、

その知的さは、
少しも変わっていませんでした。

 

しかも、「どきっ」とするほど、

きれいになっていました。

 

しかし、

そのころは一児のママでした。

そういう私も結婚していました。


やっぱり初恋は、

「はかない」

 

ものなんですね。

 

8.生徒会

3年生になったころでしょうか。

生徒会に興味を持ちました。

 

というか、

我が校では、

学校の成績のよい人が生徒会の役員になるものだと、

暗黙のルールがあったようです。

 

それで、
私も「生徒会長」に立候補しました。

 

8-1.体育館で立候補演説も

我が校にも一人前に選挙規定がありました。

立候補者が全校生徒の前で演説するのです。

 

◆こういうの大好き。

実は、私は次男です。


と、いきなり脱線してしまいました。

 

男ばっかり3人の真ん中です。

 

家では一番目立ちにくい存在です。

 

長男:将来の跡取り⇒親から大事にされる。

末っ子:かわいいと、可愛がられる。

次男:「ケンジ、あんたおったんね」

ケンジは私の名前です。

 

というわけで、
家では存在感が薄かったので、

いつも、
どうしたら目立つかを考えていました。

 

そうしないと生きていけませんから。
(ちょっと大袈裟か)

 

そういうなかでの、

立候補演説です。

 

張り切ったのは言うまでもありません。

 

当然ですが、
肝心な中身は覚えていません。
(が~ん)

 

どうせ、
いい加減なことしか、
しゃべっていなかったのでしょう。

 

ちなみに、

こんな調子が良いところも次男の特徴です。

 

しかも、

血液型はO型です。

 

性格が、

かなりの「おおざっぱ」です。

 

すみません、また脱線しました。

 

8-2.それで選挙結果は?

その選挙結果ですが、
見事(というか、まぐれというか)当選しました。

 

◆そのあとが大変・・。

ですが、生徒会長って大変なんですね。

まず三役を選出します。

「三役」って、なんだったけなあ。
(もう忘れちゃった)

そのほか、役員会議とかがありました。

また、朝礼のときに何かしゃべったような記憶もあります。

少なくとも、首相の安倍ちゃんよりは、
マジメに働いたと思います。

 

9.進学

私の一番苦い思い出「進学」です。

 

9-1.みんなは公立高校(進学校)へ

この時代(いまでもそうかなあ)、
進路には、「理想」と呼ばれるレールがありました。

上野丘高校 or 舞鶴高校
(いずれも大分では有名な進学校
      ↓
一流大学(国立大学 or 早稲田/慶応)
      ↓
    一流企業

 

9-2.ところが私の家は貧乏

ところが、私の家(うち)は貧乏でした。

 

たしか、
このころも生活保護を受けていたと思います。

 

大学に行かせてもらえるほどの余裕は、
どこにもありませんでした。

 

だから、
みんなが進学の話をしているときは、

私はいつも「蚊帳の外」でした。

 

9-3.進学先は大分高専のみ

そのような貧乏家庭でしたので、選択肢はただ一つ。

 

「即卒業」、「即稼ぐ」

 

つまり、

授業料の安い学校に行って、

早く卒業し、

給料の良いところに早く就職することでした。

この条件にマッチしていたのが高専でした。

 

即戦力となる中堅技術者を、
国策で養成していたのです。

 

高専:工業高等専門学校

 

高専は、いちおう「国立」でした。

 

ですので、
授業料は安かったと思います。

 

◆競争率は10倍も。

あの頃の高専の入学競争率は10倍近くでした。
(数字は、うるおぼえです)


高専ができたころの、

ちょうど人気絶頂期でした。


ちなみに、

大分高専は、1963年4月に開校しました。


よって、私は三期生です。

 

9-4.奨学金

高専という格安な学校を選んでも、
我が家の家計は苦しかったので、
奨学金をもらうことにしました。

そのための試験も受けました。

 

余談ですが、
この時期、試験には自信がありました。

 

とにかく、
試験勉強は徹底してやりました。

 

9-5.こういう裏話も

大分高専での入学試験の成績(順位)は2番でした。


一番の人は舞鶴高校から
京都の大学に行った女性でした。
(それは、あとから知りました)

 

その女性とは、デパートのアルバイトで、
ひょんなことから知り合いました。

 

う~ん、

たしかに秀才タイプでした。

(いいとこのお嬢さんのような感じでした)


私なんか
「お呼びでない」って感じでした。

 

ちなみに、その女性が通った、
舞鶴高校の入学試験に私も受けました。

いわゆる「滑り止め」ってやつですね。

 

しかし、

高専に合格していたので、
舞鶴高校冷やかしでした。

 

試験開始から20分ほどで試験会場を出たのですが、
(もちろん、全問解答しましたが)

それでも合格しました。

 

でも本当は舞鶴に行きたかったなあ。

 

陽子さんもいたので・・。

 

高専より舞鶴がいい!

 

大学がいい!

 

親を恨みました。

 

10.卒業式

いよいよ卒業式の季節を迎えました。

しかし、仲間のみんなは、
受験勉強で、それどころではありませんでした。

 

高専の試験は終わっていた。

そうなんです。

高専の入学試験は公立高校より早く終わります。

 

だから、

この時期は、私には余裕がありました。

 

10-1.卒業生代表で答辞を

ある日、担任の先生から言われました。


先生の名前は「松尾先生」です。

 

「河原くん、
卒業生総代として答辞を読むようになったよ」

 

そこで、

答辞を読む練習をさせられました。

 

◆それが形式張ってつまんないの。

生まれて初めての答辞です。

と緊張したのもつかのま。
すぐに嫌気がさしました。

 

①中身の文章が決まっている。

②読み方は、「ゆっくりと拡張高く」。


なんじゃこれは。

これじゃ、ただの棒読みじゃん。

 

つまり、
自分の個性なんか出しようがなかったのです。

 

しかも、

「包み」を開けて、中身を取り出す作法から、
その中身をしまう作法まで。


その「包み」を校長先生の壇上に置く作法までが、
事細かく決まっていました。

 

それを、たしか1週間近くやらされました。

 

卒業式って、
そんなもんじゃないだろうが!

 

ですので、
卒業式の記憶といえば、
その練習ばかりです。

 

10-2.母親も来ていた

この記憶はうっすらですが、
たしか卒業式には、お袋も来ていたと思います。

 

私の家は共稼ぎですので、
お袋はめったに学校に来ませんでした。

 

ですので、

私はあきらめていましたし、

さびしい気持ちも、

後ろめたい気持ちもありませんでした。

 

しかし、

子供の最後の門出を見たかったのでしょう。

 

ただ、
私の記憶にある母親の存在は、

「ほんのうっすら」です。

 

親不孝ですね。

 

11.まとめ

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大分市立滝尾中学校の全景

どうでしたか。

今回は私の中学生時代の後半を見ていただきました。

 

以下総括です。

 

キーワードを並べます。

 

11-1.波瀾万丈

私の中学時代を、ひと言でいうと波瀾万丈です。


その大きな要因は、「貧乏家庭」です。

 

生活保護を受けて、
両親とも、朝から晩まで働いていました。

 

家が全焼する火事もありました。

 

こんな状態で、
大学なんか行けるはずがありません。

 

もし、大学に行っていたら・・

と今でも思うことがあります。

 

そんな「タラレバ」を言っても始まりません。

 

ただ言えることは、

16歳の私には、

「つらすぎた」ということです。

 

11-2.背景には反抗期が

バックには間違いなく反抗期がありました。

 

ただ、私の場合は、
それが良い方向に作用したようです。

 

ラソンもそうです。

 

テストもそうです。

 

ブラバンもそうです。

 

根っからの負けず嫌いとあいまって、

「何でも1番」にさせたのでしょう。

 

11-3.でもどこかに甘えたい気持ちも

でも一方で、甘えたい気持ちがありました。

 

◆連絡ノート。

辛島先生との連絡ノートもその一つです。

あの連絡ノートには、自分の正直な気持ちを書きました。


それで救われたことは数多いと思っています。

 

できれば、そのノートをみてみたいのですが、

残念ながら私の手元にはありません。

 

記憶も段々とおくなっています。

 

残念です。

 

◆初恋も。

初恋といっても、一方的なものです。


陽子さんを意識したのは、

2年生のときでした。

 

多分、さびしかったのだと思います。

 

表面では、いきがっていましたが、

心の中では、話し相手が欲しかったのでしょう。

 

11-4.最後は自分は自分

今、私の記憶に一番残っているのは、

三年生最後の時期です。

 

1967年1月~3月

 

進学で自分だけが取り残されました。


そういう「疎外感」を感じていました。

 

もっと勉強したかったのに。

 

大学に行ける力はあったのに。

 

家が貧乏なので大学に行けない。

 

みんなと別れ別れになる。

 

なんで?

 

なんで俺だけが?

 

俺は、

俺は、

あれだけ真剣に勉強してきたんじゃないか。

 

この答えが出ないまま、

私はいずれ死んでいきます。

 

天国で両親に会えるのかなあ?

 

そのときに言う言葉があります。

 

「あのときは、生活が大変だったんだよねえ」

 

「子供3人を育てなきゃいけなかったし」

 

「そんななかで、

俺たちを育ててくれてありがとう」

 

また涙が出てきました。

 

最後までお読みいただき、

ありがとうございました。

 

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kawa2496.hatenablog.com

※更新履歴※

【更新】2019年9月6日、2020年1月10日、4月6日、5月21日、10月7日、2021年7月13日、2022年7月30日
少しだけ校正させていただきました。

【更新】2019年7月10日
「目次」を追加しました。
これで少しは読みやすくなったと思います。
タイトル及び中身(文章)をマイナー修正しました。

※CMリンク※

 

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